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2013年9月1日
「神の前に自分を投げ出して」第一サムエル記 24章

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序 : 今日の所は、神様の不思議な働きによって追うサウルと追われるダビデの立場が全く逆転します。その神様が備えてくださった、特別な機会に、サウルとダビデが、どのような状況に置かれ、どういう態度をとったのかと言うことを通して、私たちの危機における、神の前におけるあり方を教えられたい。

本論1 エン・ゲディの洞穴で
(1)逆転の機会
前回、見たのは、マオンの荒野において、サウルがダビデを追いつめ、もはや、絶体絶命という所まで来ながら「ペリシテ人が攻めて来た」という知らせを受け、サウルが退却せざるを得なくなった場面だった。一般常識で言えば、ダビデ・ラッキーで終わるかもしれないが、聖書はそう言わない。人間がどんなに個人的な感情や力を持ってしても、神様のご計画に逆らうことは出来ないということだ。神様の御心は、サウルを王位から退け、ダビデをイスラエルの王とすることだ。そして神様はご自分の御心を必ず成し遂げられます。その証の出来事だ。神は窮地に追いやることを許されたが、サウルの手には渡されない。「仕切りの岩」となった。そして、ダビデたちはそこから死海の西岸にあるオアシ ス、エン・ゲディに行った。さて、その情報もサウルに知らされる。


Ⅰサム24:1「サウルがペリシテ人討伐から帰って来たとき、ダビデが今、エン・ゲディの荒野にいるということが知らされた。」
24:2 そこでサウルは、イスラエル全体から三千人の精鋭をえり抜いて、エエリムの岩の東に、ダビデとその部下を捜しに出かけた。
エエリムの岩=「野山羊の岩」1946,7年にムハンマド・エン・デイーブという羊飼いが、子ヤギを追いかけてクムランと呼ばれる遺跡の洞窟に入り、壺に入った聖書の写本の巻物を発見した。20世紀最大の発見、死海写本だ。そのクムラン第4洞窟は遠くない。今でもヤギがいる。その「野山羊の岩」の近くに三千人の特殊部隊。Swatやビン・ラディンを殺害した米海軍特殊部隊ネイビー・シールズのような精鋭、選りすぐった兵士たちが、指名手配中のダビデとその部下600人に臨む。常識で言えば、戦いにならない戦力の違いだ。


しかし、ひとたび神様が力を表せば、数や力や経験など、一切の人間的なものを逆転することがおできになる。そういうことを神様はたった一つの出来事でなさった。それは、追いかけて来たサウルが用を足すために、たまたまダビデたちが隠れていた洞穴に入って来たということによって実現した。
「600人も洞窟に入れるの?」と思うかもしれないが、大きな洞穴もある。「エルマアマ」と呼ばれる洞穴は嵐を逃れて3万人の人が入れたそうだ。

(2)勝利の秘訣
この地域は冬でも暑いそうで、生き物たちも岩間に身を隠すそうだ。ダビデの部下たちも隠れながら日を避けて洞穴の奥の方にいたのだが、そこにサウルの精鋭部隊の足音が聞こえ、外の光の中に遠く部隊の姿が見えたかもしれない。息を凝らしていると、しばらくして、なんと、サウル自身が、洞穴に入ってきたのだ。


「用をたす」と言う言葉の言語は、「両足を覆う」と言う言葉で、「昼寝」と取れなくもないが、しかし、イスラエルでは外套で両足を覆って用を足した。だから外套が携帯用簡易トイレの役を果たす。山男は「キジを撃ってくる」と言う。草むらに身をかがめる格好がキジを撃つ格好と似ているのでそう言う。この場合もそういう遠回しの表現だと思う。ダビデが近づく時、よく気づかれなかったなあと思うかもしれないが、その場にいればどんな音がするかわからない。風の音、ヤギや、兵士たちの音や声、もしかしたらせせらぎの音がしていれば、近づくのは可能だ。とにかく神は宝くじを当てるような確率で、形勢逆転の状況を用意された。


聖書には、このような神による逆転を、様々な戦闘場面で記録している。14章にしるされていたヨナタンとペリシテの戦い、あるいはあえて少数とされたギデオンの戦い、神がことを逆転されるのは、いつも人間の力や業を無とし、唯ご自身の偉大な恵みの力を示すためであるように思う。究極はキリストの十字架であり、そこには、神の恵みの力が、人間の罪や、あるいは、それに働くあらゆる悪の霊力に勝るものであることが示されている。死が神の命に飲み込まれる逆転劇だ。聖書は神の逆転勝ちの記録と予言と言ってよいかもしれない。だから、私たちは状況が悪い時にも、「一瞬先は光かもしれない」と言う信仰を持ちたい。先週のメッセージのドイツ人神学者ボーエンの言葉「信仰とは神の与えてくださった新しいメガネで希望を持って見ることの出来る自分となってい くこと」だ。


だから、真に人生に勝利していく秘訣は、力や権力のある者のそばにいるということではなく、この神を信じるということの中にある。

(3)危機を知らない私たち
ダビデはそれを心得ていた。この場合も、サウルの力とダビデの力を比較するというようなことではなく、サウルの神に対する信仰と態度、そして、ダビデの神に対する信仰と態度、そのどちらに対しても神はふさわしく愛を持って導いておられる。サウルのように神様に対して意識的に反抗しているような状態の中で、神がなさる最善は、その願いと祈りを聞かないということだ。自分の子供が悪いことをしようとしているのを知った親がする最善はそれをやめさせることだ。場合によってはその愚かさのゆえに怒るかもしれない。それは愛と矛盾しない。サウルは今、よく出来た最高の部下を抹殺しようとしている。これをとどめることは神の愛だ。


そういうわけで、サウルの願いはどうしても果たされない。そればかりかサウルは命の危機にさらされているのだ。殺されても仕方のない場面だ。しかし、神の、そしてダビデの憐れみによって、彼は生きながらえる。それは神によって猶予を与えられたからだ。神は彼に、悔い改めの機会を与え、その命を延長された。神様は何とか私たちをご自身のものにしたいとあきらめずに機会を残そうとされている。神様の憐れみだ。
彼の姿は、神の愛がぎりぎりまで忍耐しているのに、それに気づかずにいる私たち罪人の姿を表している。身代わりとなって死んでくださったイエス様の十字架の前でその愛に気づかずにいる人たちのように。あるいはもしクリスチャンの立場で考えるならば、終わりの時は間近に迫っているのに、まだ花婿は来ないだろうと油を用意しない人たち。あるいは主人からの言いつけを忘れ、仲間と、遊興している僕。神様から与えられている使命に無頓着でいる私たちの姿かもしれない。私たちは、何かいやなことが起こる「なぜ神は」とすぐに言うが、ルカの福音書に13章に出てくるイチジクの木のように、神の期待を裏切り続けながらも、キリストのとりなしによって 「どうか、ことし一年猶予をください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。それで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。」と祈られている者かもしれない。実際、それが、この世界の現状、私たちの多くの現状だと思う。

本論2 ダビデの受けた試み
(1)部下の言葉による試み
さてこの形勢の逆転劇で、一見すると、ダビデにとっては、有利な状態が与えられたようだが、実はその中に、非常に難しい、試みがあったとを見ることが出来る。その試みを、もし、イエス様の生涯で考えるならば、あの公生涯の初めに荒野でうけた悪魔の誘惑に匹敵する試みであったと思う。オレオレ詐欺もそうだが、騙す方も、高度のテクニックを研究している。この洞窟での試みは、まさにそういう試みに直面する場面だ。


24:4ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、【主】があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。


神様の御心を知る一つの重要な材料は、神がそれにふさわしい状況を与えてくださるかどうかということがある。状況が整うというのは御心を知る大切な要素だ。確立で言えば、限りなく0%に近い出来事が起こった。それによって立場は逆転した。この奇跡的な出来事と状況を神が与えてくださったと部下もダビデも疑いなく確信している。しかし、問題は、神様がその状況の中でどうすることを願っておられるのかと言うことについてだ。


部下は、神の名を用い、信仰的な言葉を語っている。荒野での誘惑においてもサタンは神の言葉を引用して誘惑した。「こう聖書に書いてあるではないですか」と。詩篇の多くは、ダビデが部下と共に逃亡生活をする中で記され、それは実践教育の教科書ともなった。たとえば詩31:15には「私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。」とある。この部下は、そういう言葉や証をダビデから聞いていたのかもしれない。だから「今が、神様がサウルをあなたに渡したその時だ。だから神様に従って今、殺せ」というわけだ。

(2)誘惑に対する勝利
ダビデは神ではない。キリストではない。だから、この時、部下の言う通りそれが神様の御心だと考えたかもしれない。もしかしたらダビデが短剣をもって這うようににじり寄って行く時にさえそう思っていたかもしれない。しかし、その何メートルかの距離の間に、その短剣を使って彼を神を証する別の考えが与えられた。


そう考えると、確かに、サウルは憐れみを受けたが、ダビデもまた大きな憐れみを受けたと言えるのではないかと思えてくる。もし彼が、この場でサウルを殺していたら、彼は生涯禍根を残し、良心の呵責と過去を背負って生きることになっただろう。(モーセは自分の力でイスラエルを救おうとして、イスラエル人をいじめていたエジプト人を殺してしまった。そのことによって彼はエジプトから逃げ、その後の40年をミデヤンの地で羊を飼うことになった。そして、それはモーセの心の傷になったろう。)  そして、たくさんの詩篇にしるされているように琴を奏でながら、あのような数々の素晴らしい詩篇が残されることはなかったかもしれない。ダビデは大罪から、憐れみをもって救われたのだ。


自分の力で神のご計画を成し遂げることは出来ない。キリストに対する悪魔の誘惑「この石をパンに変えてみよ」「神殿の頂から飛び降りてみよ」「この世の栄華をえるために悪魔にひざまずけ」と誘惑したことも自分の力で神のご計画を成し遂げよという誘惑だ。イエス様はその一切を退けられて、十字架への道を歩まれた。十字架の道は、自分の力においては無力となる道、唯、神に信頼し、委ね、待ち望むことだ。その姿とダビデがやがて王となることを神に信頼し、委ね、待ち望む姿と重なる。
そこで、彼は外套の端をこっそり切り取ったのだ。

(3)命がけの謝罪
しかし、彼の良心はこの外套の端を切り取ったことにおいても、痛みを感じた。外套は王の権威を象徴するものであった。そういう行為は不忠、謀反の象徴ともとられた時代もあった。そのことに対する良心の痛み、また妻の父親に対しての行為、そして、何よりも、神に対する不忠実、つまり神が立てた人に対してしたということに痛みを感じたのだ、たとえ、どんなにひどい仕打ちをした人であったとしても、彼が主に油注がれた人であったことに変わりはない。これが彼が首尾一貫して言っていることだ。


24:6 彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、【主】に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、【主】の前に絶対にできないことだ。彼は【主】に油そそがれた方だから。」


こうして彼は、サウルが用を終えて、道を歩って行った時、後から、洞穴を出ていき、地に身を投げて謝罪したのだ。
24:8「その後、ダビデもほら穴から出て行き、サウルのうしろから呼びかけ、「王よ」と言った。サウルがうしろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏して、礼をした。」
nivではhis face to the ground 岩波訳では「顔が地につくほど身をかがめ、礼をした。」となっている。彼は「王よ」「陛下」(LB)と大声で呼びかけた。王と認めていることを示す。


これは勇気ある行動だ。どんなに自分に落ち度がなく潔白であると自負していても、相手は正気を逸した男だ。しかも悪霊の支配下にある。外套の切れ端を見せれば確かに、ダビデには殺す機会があったにも関わらず、それをしなかったこと、また、謀反の意志や殺意がないことを立証できる。しかし、それでも、もし、その気になればそこでサウルはダビデを殺すことが出来る状況を与えることも確かで、サウルが一時的であれ悔い改めるかどうかはわからないのだ。いわば600人の命がかかった賭けのような場面でもある。しかし、彼は自分の命を投げ出して、神の御心だと信じたところにわが身を投げ出したのだ。神に命を献げるとか、委ねるということを言うことは出来ても、今、この場で、神の御手に委ねて命を投げ出す。主に裁きを委ねる心をあからさまにそこで表した。この投げ出しがすごい。簡単なことではない。

本論3 身を投げ出したダビデ
(1)下に向かって生きる
力によって、上から彼を制するのではなく、自分が下にへりくだって神に裁きを委ねる。これが私たち神の国の民の生き方だ。イエスは言われた。
マタ 20:25…「…異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
20:26 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
20:27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」


私たちは王となると聖書に言われている。それは支配し、えばる王ではなく、真の王であるキリストに似たものとしての王、仕える王だ。どれだけの政治家が、政治をつかさどることは仕えることであるという真理を知っているだろうか。それが下に向かって生きる、逆三角形の柿生キリスト教会のロゴマークの意味だ。負けるが勝ちだ。ご主人に負ける、奥さまに負ける、上司に負ける、ライバルに負ける。
ペテロも言っている。(Ⅰペテ5:5~7節)
5:5「…みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
5:6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
ここに私たちキリスト者が見習うべき「神の前に自分自身を投げ出す」姿を見る。

(2)神に裁きを委ねて
24:9 そしてダビデはサウルに言った。「あなたはなぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている』と言う人のうわさを信じられるのですか。
「あなたは何故、私が害を加えようとしていると信じているのですか」とは言わずに、第三者に責任を転嫁して、「人のうわさを信じられるのですか」と言ったのは、ある意味、権威者への礼なのだそうだ。
詩7:3~5節には、彼の潔白を訴える心情が良く歌われている。


「7:3私の神、【主】よ。もし私がこのことをしたのなら、もし私の手に不正があるのなら、
7:4 もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら、
7:5 敵に私を追わせ、追いつかせ、私のいのちを地に踏みにじらせてください。私のたましいをちりの中にとどまらせてください。」 
7:8 【主】は諸国の民をさばかれる。【主】よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。
サウルは突然、現れたダビデから、今、自分が用を足していた洞穴で、どんなことが自分の身に起ころうとしていたかを知らされる。ダビデの部下が殺そうと言ったのに、ダビデが「【主】に油そそがれた方だから」と止めた。


「わが父よ。」(11節)という呼びかけは、娘ミカルの婿であることを思い出させ、見覚えのある布をかざして「あなたの上着のすそをよくご覧ください」と言われ、見ると、自分の外套の端が切り取られてない。それを見た瞬間彼は自分が確かに、ダビデによって憐れまれ、助けられたことを実感した。ダビデは言う。
Ⅰサム24:12「どうか、【主】が、私とあなたの間をさばき、【主】が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたを手にかけることはしません。」


パウロはローマの信徒に言った言葉を思い出す。
ロマ12:19「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
主もまた「汝の敵を愛せよ」とおっしゃつた。

(3)ダビデの愛によって
ダビデはあなたの命を狙うなどという『悪は悪人のすること(LB)』、自分はあなたが探そうとするほど価値のない、小さな取るに足りない、死んだ犬、一匹のノミでしかないではないですか(13・14節)
さすがのサウルも「これはあなたの声なのか。わが子ダビデよ」と声をあげて泣きくずれた。誰がこんなことをしてくれるだろう。「【主】があなたに幸いを与えられるように。」と言い(19)ダビデが王となることを認め、その後に、自分や子孫を断たないでくれと、願い、誓わせた。サウルがこの出来事によって決定的に変えられたわけではない。真の回心ではない。だから、22節でダビデが王宮に帰ったわけではなく、別れて部下とともに要害へ上って行ったと記されている。
しかし、たとえ一時的であったとしても人を変える可能性は、愛によることをうかがわせる。これほどのわがままな王に一時的謙遜を与えてこう言わしめたのはダビデの愛による。

結び 旧約のあらゆる出来事がキリストの十字架に光を与えている。サウルのように鈍感で気づかない者もこの捨て身の愛に触れて、悪霊の支配から一時的に解放され、我に帰った。私たちはいつ裁かれても仕方のないものでありながらそれに気づかずにいるような愚かなものだ。しかし、そんな愚かな私たちを愛し、憐れんで、捨て身の愛をもって十字架に身を投げ出されたキリストの愛に触れ、キリストがその手にかざされた血潮は、私の罪の外套の一部であることをよくよく見て知り、自分の罪をはっきり認めて、私が王ではなく、イエス様あなたが王ですと、告白出来る者になりたい。

※注  参考資料:  「神の人ダビデ」アラン・レッドパス CLC 「羊飼い・詩人・王」FBマイヤー 「乱世の指導者」千代崎秀雄 いのちのことば社 「聖書人物伝」沢村五郎 いのちのことば社  旧約聖書講解シリーズ「サムエル記」 久利英二 いのちのことば社  「サムエル記」D・F・ペイン 新教出版社  「サムエル記」ジョイス・B・ボールドウィン ティンダル・コメンタリー いのちのことば社  「預言者サムエル」W・リュティー 新教出版社  「サムエル記第一第二解説」山岸登 エマオ出版  「新聖書注解」いのちのことば社  「実用聖書注解」いのちのことば社  「聖書注解」キリスト者学生会  その他 諸訳聖書  LB(リビング・バイブル)

 

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